5 janvier 2008

制作方針

エッフェル塔が建設され、その周りを気球が舞う。乗客はドレスを着たご婦人たちと山高帽の紳士諸君で、シャンパンを片手にパリ見物と洒落込む。その下界、パリの街角は、やっと臭い下水に悩まされることなく人々が陽気に散歩している。やや小柄だが西洋風に正装した日本人が、オペラ座そばのホテルから出てくる。これから日本に来てもらうフランス将校に会いに行くのだ。船旅が長いだろうが、日本は快適なところだ、キモノとサムライはもうすぐなくなるだろう。日本は変わるのだ―― そんな時代であった。異文化がやや不自然に行き来する町はフランスでも日本でも同じだっただろう。

そんな時期だからこそ、一人孤独に芸術に打ち込む者たちは、世間から変わり者とみなされる。しかし彼らは人からどう見られていようと気にならない。彼らの真剣さは、世間とは別の世界で花開く。しかし、そこに至るまでにはさまざまな試練がある。そこを乗り越えるためには、まず自分自身を知らなくてはいけない。葛藤に答えを出す。折り合いをつける。バランスをとる。

綱渡りは、芸術、引いては魂がどうあるべきかのメタファーである。

人間はけっして善人ではない。偽善者になるのは弱さである。どろどろとした心の闇と、美しいものを追い求める清い祈りは誰もが持つ二面性である。これらの平衡を確実に取って生き抜くこと、まして芸術を志した者にとってはそれらの二面の擦れ合いが芸の源となりえるため、そこから湧き出る泉の糸の上での綱渡りだろう。

そして、男は女を愛し、女も男を愛する。芸術以上に難解な愛情のもつれも、じっくりとバランスを保ってお互いを高めあえば、二人の間をつなぐものは単純に一本の糸でしかない。この結びつきは強くもあり、もろくもある。しかし強じんな糸の上の二人は、高いところからすばらしい風景を見ることができるだろう。

 綱渡りの芸に身を捧げたネージュは、その芸ひとつで世界の国々を渡り歩き、遂には日本という島国にやってくる。まったく毛色の違う人々の中だろうと、彼女の綱の上はいつも同じ世界なのである。そして、半生を無に返し、絵画を志した狩野と結ばれた。狩野が異国の女に抵抗がなかったのは、彼にとってネージュは美しさそのものだったからである。彼女によってバランスという小宇宙を知った狩野はもうひとつ大きな世界をつくり出す。それが彼の芸術の広がりであった。
そこは、もしかしたら死への入り口なのかもしれない。美への魂に、肉体はからなずしも必要ではないからだ。ネージュも、一点の曇りもない完璧なバランスに到達できるのは魂だけ、と知っていた。彼女はその究極を選んでしまったのだ。

 登場人物は旅をする。ネージュはパリの暗い雑踏から、華やかなサーカスの舞台、日本の淡い色彩の自然、白一色の雪山、最後には透明な氷の中。狩野は絵筆を取る前の白紙同然の日常、色を知って描きはじめた絵皿の世界、ネージュを知って輝く色彩、さらに熟した彼の絵画、ネージュの死後の盲目の闇。二人の色の濃淡の順は全く逆だ。しかし、二つの違う方向のベクトルは調和、すなわちバランスのために欠かせない要素である。本人らは知らないであろうが。

 若い詩人、響も旅をすることで男になる。荒削りな創作が、研ぎ澄まされていく過程を追うことになる。純粋だからこそ痛みが生まれ、痛みは自分自身でしか治癒できないと気付く、そのためにどうすればよいかという答えが彼にとっては詩、という言葉のバランスをもった芸術だったのである。そして彼も人を愛する本当の意味を知るのだろう。

 この映画はひとひらの雪のようにはかないかもしれない。
だが、雪は美しくかたどられた雪の結晶の連なりがそっと包まれた世界なのだ。

なぜか私達ははかないものを好む。永遠へのあこがれだろうか。

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